2007年12月01日(土) 12:19
浅間山は毎日、焼け続けていた。きりもなく黒煙を吹き上げて、砂や小石を降らせ、地鳴りは続き、物凄い爆音と共に大揺れが襲った。幸いに、まだ、家々が倒壊する事はないが、仕事はまったく手につかず、夜中に揺れが来た時は一睡もできない。あちこちで祈祷をやっていても、まるで効き目は現れない。村人たちは疲れきって、持って行きようのない怒りにイライラしていた。
舞台作りも順調には行かず、芝居の稽古も中断となった。ちょっとした事で言い争いが始まって、喧嘩が絶えなかった。それでも、勘治が登場する三幕目は無事に終わり、昨日の晩、いがみの権太が登場する四幕目の下市村の茶屋の場面もうまく行った。今晩は四幕目の小金吾(コキンゴ)が討たれる松林の場面、勘治も市太も出番はない。午前中、舞台作りを手伝っていた市太は勘治と別れて、昼飯を食べに武蔵屋に向かった。
武蔵屋には二人連れの旅人と大笹から来た馬方が三人、のんきに昼飯を食べていた。市太は外が眺められる縁台に腰掛けた。
「あら、若旦那、珍しいじゃない。今日は一人なの」
「ああ、うどんを頼まア」
「はいはい。お酒はいいの」
「いいよ」
女将は何か言いたそうだったが、客がいるので何も言わずに奥に引っ込んだ。
うどんを食べ終わった後、市太は酒を頼んだ。客は皆、帰って、市太だけが残された。
「いつになったら、お山は静まるんでしょうねえ。今朝なんか、明け方近くにあんなに揺れるんですもの、まったく、おちおち寝てもいられやしない」
後片付けしながら、女将が声を掛けて来る。市太は適当に相槌(アイヅチ)を打ちながら聞いている。
「六里ケ原は大変らしいわよ。ここは小石や砂で済んでるけど、向こうは大きな石が降って来るんですって。馬が騒いで、もう大変らしいわ。怪我人も何人も出て、誰も沓掛方面に行きたがらないそうよ。それ程、急ぐ荷物もないんで、お山が落ち着くまで見送ってるらしいけど、そういくつも荷物を止めてはおけないし、うちの人が行かなきゃならなくなるかもしれないなんて言ってたわ。それにね、お山から降る砂のお陰で、馬草の被害も相当なもんだそうよ。このままだと冬の飼葉がなくなっちゃうって‥‥‥」
市太が突然、店から飛び出した。何事かと女将が外を見ると、市太は水を汲みに出て来たおろくと会っていた。
「しょうがないねえ」と女将は首を振ると下げ物を持って奥に入った。
2007年12月03日(月) 11:50
浅間山は相変わらず、黒煙をモクモクと吹き上げ、ゴーゴーと唸っていた。
市太とおろくが勘治と一緒に村に帰って来たのは、八つ半(午後三時)を過ぎていた。
もしかしたら、おろくがいなくなったと村中で大騒ぎしているかもしれないと思ったが、その気配はなく、表通りに人影は少なかった。それでも警戒して、市太とおろくは勘治と別れ、隠れながら畑の中を通って、おろくの家まで行った。
素早く、家に入ると囲炉裏端にいた甚左、甚太夫、三治、おくめの視線が一斉に二人に注がれた。
「おろく、あんた、一体、どこ行ってたのよ、まったく」
真っ先に口を開いたのは姉のおくめだった。鬼のような顔をして、おろくを責めた。
「あんたのせいで、あたしはえらい目に会ったんだからね、どうしてくれるのよ」
「姉ちゃん、御免なさい」おろくは小さくなって謝る。
「おろくと若ランナらア」と三治が笑いながら近づいて来た。
「叔父さん、御免なさいね」とおろくは三治を捕まえた。
「若ランナはおろくの婿さんになったんらア」
「ちょっと、叔父さんは黙ってよ」おくめが目を吊り上げて言う。「もう、うるさいんだから。ねえ、若旦那も何の真似なの、おろくにはもう二度と近づかないはずなんでしょ」
「おろくを無断で連れ出した事は謝る。とっつぁん、すまなかった」市太は素直に頭を下げる。「おろくを責めねえでくれ。俺が無理やり連れてったんだ」
「この責任はちゃんと取って貰うわよ」
「おめえは黙ってろ」と今度は甚左がおくめに言った。「たった一日(イチンチ)、うちの面倒を見たぐれえでグチャグチャ言うんじゃねえ。おろくは毎日(メエンチ)やってたんだ」
「何よ。いつも、おろくの肩ばかり持つんだから。もういい。あたしは仕事に戻るわよ。これから忙しくなるんだから」
おくめは膨れっ面で、市太とおろくに、フンと鼻を鳴らして出て行った。
2007年12月06日(木) 12:09
お山がいくらか静まったのは真夜中の九つ(午前〇時)時分だった。皆、ホッとして外に出た。相変わらず浅間山は唸っているが、揺れも弱まり、降って来る砂も少なくなった。峠は越しただろうとおろくたちもおかよたちも家に戻った。
市太はおろくの母親を連れ帰ると、おろくと別れ、家に帰って眠った。浅間焼けと火事騒ぎで疲れ切っていた。揺れも気にせず、ぐっすりと眠った。
もう少し寝ていたいのに、朝早く、兄の庄蔵にたたき起こされ、市太は竹箒(タケボウキ)を持って外に出た。若衆組の者たちが通りの砂を掃いていた。ひどい揺れが続いたが、倒れた家はなさそうだった。浅間山を見ると呆れる程の物凄い量の黒煙が東の方に棚引いている。軽井沢方面の空は真っ暗だ。夜中に見た時、火口付近が真っ赤に燃えていたが、今も燃えているのかはよくわからなかった。
市太は砂を掃きながら、おろくの家へと向かった。おろくの家も無事だった。それでも、一回りしてみると、壁にヒビが入っている所が何箇所もある。補強しなければ危険だった。それに、屋根の上に積もった砂も危ない。市太はその事を甚左に告げて対策を練った。
おろくの顔を見て安心し、諏訪の森の中の舞台に向かった。大工の八右衛門が来ていて、熱心に点検していた。
「よう、権太、昨夜(ユンベ)は凄かったなア」と八右衛門は舞台の上から市太に声を掛け、「舞台(ブテエ)の方は大丈夫(デエジョブ)だ」とうなづく。
「そうか、よかった」と市太は八右衛門を見上げて笑うと、花道に積もった砂を竹箒で払い落とした。
「見物席の砂は後でみんなで片付けべえ。それより、治郎左と与七んちが焼けちまった。とんだ災難だ。こう毎日、お山が焼けたんじゃア片付けるのも大変(テエヘン)だぜ」
「棟梁(トウリョウ)が建てるのかい」
「そうなるだんべえが、一人じゃア無理だ。助(スケ)を頼まなけりゃならねえ」
「棟梁も大忙しだな」
「ああ、冬が来る前にやらなきゃなるめえ。忙しいこった」
市太は棟梁と一緒に火事現場に向かった。途中、おまんの家に惣八の姿が見えた。
「おい、惣八、おめえ、何してる」市太が声を掛けると、
「おう、市太か。ちょっと手伝ってくれや」と惣八は手招きした。
「何がどうしたんだ」
「小道具がメチャクチャになっちまったんだ」
市太は棟梁と別れて、おまんの家に入った。部屋の中は歩く間もないほど小道具が散乱している。
「ひでえなア、こいつア」
「棚からみんな落っちまんたんだ。ここだけじゃねえ。蔵の中もメチャメチャだ」
「おめえ、また、八兵衛に頼まれたのか」
「そうさ。馬の治療で忙しいんだとさ」
「そういやア、うちの馬も怪我したとか言ってたっけ。おまんと二人で片付けてんのか」
「そうだよ」
「ふーん。俺は邪魔だな。消えるよ」
「おい、そんな事言うなよ。手伝ってくれよ」
「俺も忙しいんだ」
市太は手を振ると通りに戻った。
2007年12月08日(土) 10:17
昨日の昼八つ(午後二時)、今までにない大噴火が起こった。耳をつんざく大音響と共に、天も地も裂けてしまいそうな凄い揺れが来た。とても立ってなどいられない。皆、転がるように家を飛び出すと地に身を伏せて浅間山を見上げた。山頂付近は真っ赤に燃えて、天に向かって勢いよく吹き出す黒煙から火の玉が四方に次々と飛び出している。やがて、砂と小石が降って来て、人々は土蔵の中に逃げ込んだ。
せっかく、補強したおろくの家は今にも崩れそうになり、市太はおろくの家族を自分の家の土蔵に連れて行った。土蔵のない者たちは皆、家から出て近所の土蔵に入れて貰ったり、延命寺に逃げ込んだり、芝居の舞台に逃げ込んだ者たちもいた。馬たちは恐怖に脅えて、気がふれたようにいななき、騒ぎ回るがどうする事もできない。家の中の馬屋につないだまま無事を祈るしかなかった。
夜になっても大焼けは止まらなかった。雷鳴は鳴りやまず、花火のように飛び散る火の玉は山裾を焼いていた。降って来る小石の大きさはだんだんと大きくなって行き、一寸を越える石が落ちて来ては砕け散った。お山の鬼は一晩中、騒ぎ続け、村人たちは一睡もできなかった。
長く辛い夜が明けた。夜が明ければ、お山もくたびれて静かになるだろうと思っていたが無駄だった。疲れを知らないお山は相変わらず唸り続け、揺れも治まらず、小石を降らし続けた。それでも、真っ暗闇にじっとしていた村人たちは恐る恐る、綿入れ頭巾(ズキン)や布団を被って外に出た。
地面には黒っぽい軽石が積もり、歩くだけで足の裏が痛くなる。用水の中にも石は積もって、今にも水があふれ出そうだ。石を浚わなければならないが、こう、石が降り続いていたのでは仕事にならない。浅間山を眺めると、よくもまあ、煙が尽きないものだと呆れる程、黒煙を吹き上げていた。
おろくの父親が心配するので、市太は松五郎を連れて、おろくの家を見に行った。石に打たれながら、石の積もった表通りを走った。
おゆうの家が傾いていた。おゆうの父親、三左衛門が呆然として、我が家を眺めている。
おろくの家は傾いてはいなかった。市太は外回りを調べた。壁土のあちこちが剥げ、大きなヒビが入っている。これ以上、大揺れが続けば危なかった。松五郎は家の中に入って、馬の無事を確かめた。馬に飼葉(カイバ)と水をやり、家の中を一通り調べて外に出た。
「俺はここに残ります」と松五郎は言った。
「ダメだ。危ねえ。ここにいたってどうする事もできねえ。揺れがやむまでは蔵ん中にいた方がいい」
馬がいなないた。後ろ髪を引かれるような気持ちで、二人はおろくの家から離れた。
2007年12月11日(火) 12:11
真夜中の九つ(午前〇時)から八つ(午前二時)まで、土蔵が壊れるかと思う程の大揺れが続いた。皆、恐ろしさに震え、念仏を唱え続けながら恐怖と戦っていた。その後も小さな揺れを繰り返しながら、ようやく、長過ぎた夜が明けた。村人たちは二晩も続けて一睡もできず、精神的に限界を越え、クタクタに疲れ切っていた。
揺れは続いているが青空が顔を出している。村人たちは生きていた事を喜び会いながら、恐る恐る蔵から外に出た。
庭には大きな焼け石が砕けたカケラがゴロゴロしていた。表通りに出ると用水は砂と石ですっかり埋まり、あふれ出た水は泥水になって流れている。村人たちは飲み水がなくなったと騒ぎ始めた。樹木は倒れ、家々も傾き、倒れている家もあった。
市太は松五郎を連れて、おろくの家を見に行った。ふと、浅間山を見ると、黒煙を吹き上げているのは変わらなかったが、山の頂上から黒い物が流れ出して、山裾まで伸びている。まるで、お山が舌を出して、アカンベエをしているようだ。
「おい、何でえ、ありゃア」
倒れたおゆうの家をポカンと見ていた松五郎は顔を上げて、浅間山を見た。
「何だ、あれは‥‥‥」と言ったきり、声が出ない。
昨夜、火の海だった六里ケ原から山裾に掛けては、まだ燃えているのか煙を上げている。お山から鎌原村までは四里も離れているので、ここまで山火事が来るとは思えないが、不安は増えるばかりだった。
二人とも呆然(ボウゼン)と浅間山を見つめていた。村人たちも気づいて、皆、浅間山を見ながら、あれこれ騒ぎ始めた。
気を取り直して、おろくの家まで行くと、やはり傾いていた。もう一度、大揺れが来れば完全に倒れてしまうだろう。
「馬がいねえ」と松五郎が家の中から叫んだ。
土間の隅にある馬屋は馬に蹴られて傷だらけで、馬柵棒(マセンボウ)は外れていた。
「しょうがねえ。あんだけひでえ目に会えば、馬だって必死になって逃げるさ」
「しかし‥‥‥」
「いなくなった者(モン)をとやかく言っても始まらねえ。それより、今の内に家財道具を外に出しといた方がいい。親父とおろくを呼んで来てくれ」
松五郎はうなづくと出て行った。市太は部屋に上がってみた。閉めきっておいた雨戸は皆外れて、外に落ちている。壁土は剥がれ、障子も外れて倒れている。甚太夫の三味線は無残な姿になっていた。見渡した所、荷物はそれ程ない。すぐに運び出せるだろう。
甚左とおろくが来るとみんなで注意しながら家財道具を外に運び出した。
2007年12月12日(水) 11:37
一瞬にして鎌原村は消えてしまった。あれ程大量の土砂が一気に押し寄せて来るなんて、まったく、考えられない事だった。
生存者は観音堂に集まっていた、たったの六十一人。その内訳は女が三十九人、男が二十二人。生き残った村役人は百姓代の仲右衛門一人だけ。名主の儀右衛門、組頭の平太夫(おみやの父)と伴右衛門は延命寺の和尚と一緒にお山に登った。生きているとは考えられない。年寄役の市太の父親は問屋で仕事をしていて埋まってしまった。他の村役人は皆、延命寺にいた。延命寺でも祈祷をしていたので、村役人だけでなく村人たちが大勢、集まっていた。
仲右衛門も延命寺にいて、今後の対策を練っていたが、長老の意見を聞こうという事になり、観音堂にいた市太の祖父、市左衛門とお山の事なら何でも知っている山守の隠居、長兵衛を呼びに来て助かったのだった。
仲右衛門と同じように、村にいたが寸前に観音堂に来て助かった者が数人いる。馬方を集めに来た半兵衛と、危ないから土蔵に帰れと皆を呼びに来た杢兵衛の他に、旅籠屋『扇屋』の清之丞(セイノジョウ)の兄、吉右衛門とおきよの兄嫁おふき、おみやの叔母おいねがいた。
吉右衛門は旅籠屋の留守番をしていたが、銭勘定(ゼニカンジョウ)でわからない事があって、清之丞に聞きに来て助かった。吉右衛門は清之丞の兄だったが、稼業の旅籠屋を嫌って、一時、村を出ていた。仕事に失敗して、六年前に妻を連れて戻って来た。当時、父親は生きていて、身勝手な吉右衛門を許さず、稼業を弟に譲り、吉右衛門は弟に使われていた。
おふきは娘のおふさを呼びに来て助かった。おふさは市太の妹おくら、半兵衛の娘おふじと一緒に来ていた。おいねは伜の久吉を呼びに来て助かっている。
その逆で、観音堂にいたにもかかわらず、寸前になって村に下りて亡くなった者もいる。
名主の家族は、延命寺の和尚と一緒にお山に登った儀右衛門の無事を祈るため、家族揃って観音堂に来ていた。観音堂からお山に入って行く名主の姿を見送り、しばらくお祈りした後、家に帰って亡くなった。儀右衛門の妻のおさよだけは娘を呼びに来たおふきと立ち話をしていて観音堂に残り、助かっている。一旦、家に帰った家族は家の中の片付けをしていたが、大きな揺れが来て、儀右衛門の事が心配になった。殊(コト)の外、母親は心配になり、石が降り止むと儀右衛門の姉におぶさって観音堂へと向かった。後もう少しで観音堂にたどり着くというその時、土砂を被り、石段の上に折り重なって亡くなってしまった。
おなつとおなべも観音堂にいたのに、市太とおろくの姿を見つけ、いたたまれずに村に帰っている。三治は隣に住むおかめ婆さんと一緒に村に下りていた。おかめ婆さんが一人でいる三治を見つけ、おろくが心配しているだろうと連れ帰ったのだった。
おろくはそんな事は知らない。観音堂の近くにいるに違いないとあちこち捜し回ったが見つからず、三治が亡くなったのは自分のせいだと泣き続けた。おろくは三治だけでなく、家族全員を失っていた。父親の甚左と叔父の三治は潰れた家の側で亡くなり、寝たきりの母親と兄、甚太夫は市太の家の土蔵の中で亡くなった。姉のおくめは旅籠屋の桐屋にいて、桐屋の家族共々亡くなった。松五郎は問屋で荷物の整理をしていて亡くなった。
市太は父親の作右衛門と兄の庄蔵、叔父の弥左衛門、従弟(イトコ)の五郎八、従妹(イトコ)のおつた、おさつを失った。父親と兄、叔父と従弟は仕事をしていて、幼い従妹二人は蔵の中で眠っていた。
勘治も死んだ。惣八も死んだ。おなつも死んだ。おなべも死んだ。安治も死んだ。丑之助も死んだ。幸助も死んだ。おきよも死んだ。桔梗屋の姉さんも死んでしまった。
馬医者の八兵衛は死んだが、おまんは無事だった。おまんは義姉(アネ)である杢兵衛の妻おすみと一緒に観音堂に来ていた。杢兵衛の蔵に避難していた、おしめとおまちも一緒だった。
半兵衛は妻と二人の伜と二人の娘を失なった。娘のおふじだけは市太の妹おくらと一緒にいて助かった。
おかよも姪っ子をおぶったまま生きていた。妹のおこうも無事だったが、両親、兄夫婦、すぐ上の兄、長治は亡くなった。
家族が揃っていたのは子供のいない杢兵衛夫婦だけだった。
2007年12月14日(金) 11:47
あれだけの土石流を吐き出したので、お山も静かになるかと思えたが、そうではなかった。村が埋まった八日の夜も大音響と共に大揺れが何度も来て、生き残った者たちの恐れと不安をかき立てた。もう一度、土石流が押し寄せたら観音堂も埋まってしまう。逃げようにも逃げる場所はない。一睡もできずに、泣きながら念仏を唱え続けて夜を明かした。
五人増えて六十六人となった生存者たちは観音堂と若衆小屋に分かれて、降って来る石を避けていた。普段の付き合いによって、自然と四組に分かれた。
およそ十畳の広さの観音堂にいるのは名主の儀右衛門の妻おさよ、問屋をしていた市太の家族、酒屋だったおみやの家族、旅籠屋をしていた清之丞(セイノジョウ)の家族、しめて十九人。要するに家柄のいい人たちだった。
おさよは干俣(ホシマタ)村の名主、干川小兵衛の娘で、夫と三人の息子、母と姉、弟夫婦を亡くして、たった一人生き残った。あまりにも衝撃が強く、泣く事も忘れて、気が抜けたように呆然としている。
市太の家族は祖父の市左衛門、母のおきつ、兄嫁のおきた、妹のおさやとおくら、叔母のおふさが生き残った。男で生きているのは祖父と市太だけだった。
酒屋の家族はおみやと弟の平次、叔母と従弟(イトコ)が生き残り、両親と叔父、もう一人の叔母が亡くなった。兄の三右衛門は、その朝早くに大戸(オオド)に向かった。大戸が無事なら生きているかもしれない。
清之丞の家族は、兄の吉右衛門の妻が亡くなっただけで、後は皆、無事だった。家族が助かったにもかかわらず、清之丞はすべての財産を失ったのは永泉坊のせいだとブツブツ愚痴ばかり言っていた。
若衆小屋には筵(ムシロ)敷きの八畳間が二部屋と十畳の広さの土間があり、部屋の前に一間(ケン)幅の縁側がついていた。土間には流しはあるが竈(カマド)はない。火災にあって仮住まいしていた与七と治郎左の家族と、油屋をしていた八弥の家族、十五人が一部屋に収まり、唯一生き残った村役人、百姓代の仲右衛門と諏訪明神の宮守(ミヤモリ)だった杢右衛門を中心に、その近所の者たち十二人がもう一部屋に入り、土間にいたのは若衆頭の杢兵衛夫婦、半兵衛父娘(オヤコ)、山守の家族、おかよの姉妹、仙之助の両親、八兵衛の妻おまん、彦七の妻おしめ、おゆうの妹おまち、そして、市太とおろくもそこにいた。
ギュウギュウ詰めの状態で、体を伸ばす事もできない。真っ暗闇の中、寝不足で溜まった疲労、家族を失った悲しみ、家財産を失った怒り、空腹と蒸し暑さに耐えながら、生き残った者たちは地獄のような長い夜を過ごした。
朝方になっても小揺れは続いていたが、降る石はやんだ。皆、疲れ果てて、いつの間にか眠ってしまったらしい。市太は丸くなって寝ている人々を避けながら、明るくなった外へと出た。
2007年12月16日(日) 12:15
雨が毎日、降っていた。
十日の午前中、若衆小屋も壊れるかと思う程の大揺れが来た。土砂が押し寄せて来るかと警戒したが、それはなく、正午頃には静まった。ただ、雨がお湯になって降って来たのには驚いた。まるで、草津の滝の湯を浴びているようで、男たちは裸になって湯を浴びた。
一日中、雨が降っていたので、焼け石も冷えて歩けるだろうと思ったが、まだダメだった。夜になると雨降る中でも、焼け石が燃えて所々が明るかった。
十一日、十二日も雨が降り続き、時々、揺れが来た。かなりの揺れなのだが、すっかり大揺れに慣れてしまった者たちにとっては何でもなかった。いちいち驚く気力もなく、もうどうにでもなれと開き直っていた。その頃、軽井沢方面では屋根に積もった灰が雨を含んで重くなり、家々が何軒も潰れていた。
十三日になっても雨は降り続いた。幸い、灰を含んではいないので、溜めて置けば飲み水にもなり、体を拭くのにも役に立った。しかし、狭い小屋の中から外に出る事はできず、やる事もなく、ただじっとうずくまっているのは耐え切れない程の苦痛だった。
ここに閉じ込められて五日が過ぎ、水ばかり飲んでいた生存者は皆、病人のようになっていた。中でも観音堂にいる扇屋の旦那はひどかった。下痢(ゲリ)と発熱、空腹と疲労でゲッソリしている。失った財産の事ばかり愚痴っていた旦那がおとなしくなったのはいいが、看病疲れで妻も母親も倒れてしまった。市太の兄嫁おきたも旦那の病が移ったのか熱を出している。若衆小屋でも百姓代の仲右衛門が最初に倒れ、大工の八右衛門の妻おまて、仙之助の母おいよ、与左衛門の娘おすき、半兵衛の娘おふじと移り、彦七の妻おしめもやられ、おしめから乳を貰っていた、おそめも熱を出してグッタリしている。このままでは全滅の危機が迫っていた。
市太、半兵衛、お頭の杢兵衛が毎日、焼け石の様子を見に行くが、まだ歩けそうもない。元気な男衆なら何とかなるだろうが、病人を連れて行くとなると難しい。しかも、雨の中、連れて行くのは危険だった。
「もうギリギリじゃねえのか」と軒下に座り込んで、雨を恨めしそうに眺めていた半兵衛が隣に立っている市太に言った。「誰かが助けを呼んで来なけりゃ、みんな倒れちまうぜ」
「そうだな。おふじちゃんも倒れちまったしな」と市太も座り込む。
「わしたちがここにいるのを誰も知らねえに違えねえ。誰かが知らせなくちゃならねえ」
「どこまで行けるかわからねえが、明日になったら俺が行ってくらア」
「いや、わしが行って来る」
「それじゃア、二人で行くべえ。こっちの事はお頭に頼みゃア大丈夫だんべえ」
「そうじゃな、そうするか」
二人が密かに相談しているとおろくが顔を出した。おろくも可哀想な位にやつれ果てている。生まれつき、何かをやらずにはいられない性分で、母親の看病に慣れているからと倒れている者たちの面倒を見ていた。面倒を見ると言っても栄養を付ける食べ物はない。熱冷ましの手拭を代えてやるか、水を飲ませるか、体を拭いてやる事しかできないが、自分も倒れそうなのに他人の面倒を見るのは大変な事だった。
「明日、行くんですか」
「聞いてたのか」
おろくはうなづいた。
「気を付けて下さい。まだ、熱いんでしょ」
「板切れを持ってって、熱いとこはそいつの上を渡って行きゃア、何とかなるだんべ。すぐに戻って来るよ。何か必要な物はあるか」
「そうねえ。やっぱり、食べ物でしょうね。何かを食べなきゃ、みんな歩く事もできないでしょう‥‥‥そうだ、もう大揺れは来そうもないし、明かりも欲しいわね」
「油か‥‥‥いや、ローソクの方がいいな」
「二人共、なに言ってんだ」と半兵衛が言う。「助けを連れて戻って来りゃア、もうここにいる必要はねえんじゃよ」
「あっ、そうか」
「それじゃア、明日も雨が降ってたら、笠に合羽(カッパ)がいるわ、病人の分だけでも。駕籠(カゴ)も欲しいけど、道もないのに駕籠は無理ね」
「病人はおぶって連れて行くよりあるめえ。威勢のいい人足を連れてくらア」
2007年12月18日(火) 11:41
今日も雨が降り続いていた。
市太と半兵衛、それと、昨日、狩宿から来た丑之助、仙之助、孫八を加えた五人は焼け石の上を歩いて、大笹に向かっていた。三右衛門と長治の二人は今朝になって怪我をしている事がわかり、連れて来るのはやめにした。
焼け石も大分、冷めていた。市太と半兵衛は草履(ゾウリ)よりはましだろうと、三右衛門と長治が履いて来た歯の減っている下駄を履いている。笠と蓑(ミノ)も借りてきた。
埋まらずに残っている金毘羅(コンピラ)山を目指して一行は進んだ。昨夜、丑之助が話した通り、ひどいものだった。観音堂から見た時は、ほとんど平らに見えたのに、実際に歩いてみるとデコボコだらけだった。太い木の幹は好き勝手な格好で埋まっている。こんな物がよく流れて来たと呆(アキ)れる程の大きな岩がゴロゴロ転がっている。厄介(ヤッカイ)なのが焼け石だった。表面は冷えているが中の方はまだ熱い。固まっていればいいのだが、中には柔らかいのもあって、そこを歩こうものなら、足が埋まって火傷(ヤケド)をしてしまう。足元を確かめながら進まなければならず、ちっとも前に進まない。丑之助たちが二里の距離を八時間も掛かったというのもうなづけた。泥だらけになって、半里にも満たない距離を二時間もかけ、ようやく、金毘羅山に到着した。
飯を食べていた丑之助たちは元気いいが、六日間も飲まず食わずの市太と半兵衛はもう限界だった。とても、あと四倍も歩けそうもない。二人は金毘羅山の森の中に倒れ込んだ。
「おい、丑、俺アもうダメだ。大笹には行けそうもねえ」と市太が弱音を吐くと、
「わしも無理じゃ」と半兵衛も言う。「おめえたちで行って来てくれ」
「大笹はやめて、大前にするか」と孫八が言う。
「大前は川向こうだからな。橋が無事なら行けるが、大丈夫だんべえか」
「とにかく、山の上まで行って見てみらア。どの辺までやられてるかわかるだんべ」
孫八と丑之助と仙之助は山を登って行った。三人を見送ると市太と半兵衛は横になった。
「畜生、情けねえが体がいう事を聞かねえ。これ程、大変(テエヘン)だとは思ってもいなかった」
「わしだって同じさ。まったく、情けねえよ」
「俺たちがこんなざまじゃア、とても女子供は歩けねえな」
「ああ、無理だんべえ。かと言って、あのまま、あそこにいても危ねえよ」
「せっかく生き残ったのに、あんなとこで死んだんじゃア情けねえ」
「あの三人に大笹まで行ってもらって、何か食い物を持って来てもらうしかねえな」
「そうだな‥‥‥もう一晩、あそこで過ごすのか‥‥‥」
「せめて、雨がやんでくれりゃアいいのに」半兵衛はボロボロになった手拭で顔を拭いた。
やがて、孫八たちが戻って来た。
「大前の方までずっと焼け石で埋まってる。橋も流されちまったかもしれねえ」
「そうか。大笹の方はどうだ」と市太は上体を起こしながら聞いた。
「よくわからねえ。わからねえけど行ってみるしかねえ」
「そうだな。行くしかねえな」
「どうする」と丑之助が心配そうに、横になったままの半兵衛を見ながら市太に聞く。
「俺たちゃダメだ。ここで休んでから観音堂に戻る。戻るのも大変だがな」
「そうか。それじゃア俺たちで行くか」
「食い物と病人を運ぶ頑丈(ガンジョウ)な人足を頼まア」
「わかった。気を付けてな」
「おめえたちも気を付けてくれ」
孫八たちは山麓を大笹の方へと向かった。
2007年12月20日(木) 11:41
大笹に来た鎌原村の生存者たちは衰弱しきっているので旅籠屋に収容された。風呂に入れる者は体を洗って、乾いた着物に着替え、お粥(カユ)を食べて、布団の上に体を伸ばして、ゆっくりと眠った。
市太は昼過ぎまで眠っていた。目が覚めて隣を見るとおろくはいない。半兵衛と娘のおふじはぐっすりと眠っている。おまちも眠っているが姉のおゆうの姿はなかった。
厠(カワヤ)に寄ってから、市太は外に出た。
雲一つない青空が広がっていた。お天道(テント)様を見るのも久し振りだ。日差しは強く、眩(マブ)しかった。市太は体を伸ばすと深呼吸をした。生きていてよかったとしみじみと感じた。
表通りには近在の避難民たちが虚ろな顔をして行き来している。問屋に行くと、庭に大釜を出して女衆(オンナシ)が炊き出しをしていた。仮普請(カリブシン)の小屋の中には年寄りや子供たちが疲れきった顔で横になっている。市太は呆然とそれを眺めながら、ひどい目に会ったのは自分たちだけではなかったのだと実感した。
「おなか、減ったでしょ」と声がして振り向くと、おろくがいた。
襷(タスキ)掛けをしたおろくが、お粥の入ったお椀と箸(ハシ)を差し出した。
「すまねえ。おめえ、ずっと手伝ってたのか」
「そうじゃないけど、目が覚めちゃったから。ここに来たら、おゆうさんが手伝ってたんで、あたしも一緒にやってたの」
「ほう、おゆうもいるのか」
「ほら、あそこに」
おろくが示す方を見ると、木陰で休んでいる者たちに、おゆうがお粥を配っていた。
「へえ、あんな事をするたア、あいつも草津に行って変わったな」
「さっき、一緒にお粥を食べて、色々と話を聞いたの」
「勘治の事か」
おろくはうなづいた。
「信じられないって、勘治さんが亡くなった事が。もしかしたら、どこかで生きていて、ここに来るかもしれないって」
「そうか‥‥‥そうだんべなア。俺だって信じられねえ。惣八や安が生きてたように、勘治も生きてると思いてえ」
市太は腰を下ろすとお粥を食べ始めた。
「食欲も大分、出て来たぜ」
「あたしもお代わりしちゃった」とおろくは笑った。
「大分、顔色もよくなって来たな」
「うん、昨夜はよく眠れたもん」
「夢ん中にな、三治が出て来たぜ。いつものように笑いながら、若ランナって呼びやがった。俺の手を引いて観音堂に連れて行こうとするんだ。でも、石段がやけに長くてな、いくら登っても観音堂に着かねえんだ」
「それでどうしたの」
「どこからか、鈴の音が聞こえて来てな、振り返るとおめえが石段を登って来たんだ。俺がおめえを待ってる隙に、三治はずっと先の方まで登ってって見えなくなっちまった」
「そう‥‥‥きっと、極楽に行っちゃったのね」
「そうかもしれねえな」
おろくは目頭を軽く拭くと無理に笑って、「おみのさんたち、朝早くから狩宿に行ったんですって」と話題を変えた。







