天明3年7月、浅間山が大噴火を起こし、鎌原村は火砕流にのまれて、500人近くの村人が亡くなりました
9.五月二十七日
2007年11月01日(木) 12:45
9.五月二十七日




 そのまま治まるかに見えた浅間の噴火は、次の日の夕方七つ(午後四時)頃、またもや、大音響と共に大揺れした。その時、市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。半兵衛と一緒に明日、運ぶ荷物の荷造りをしていた。

「くそっ、延命寺の御祈祷(ゴキトウ)も効かねえのか」と半兵衛が積んである荷物を押さえながら、浅間山を見上げた。

 昨日の大爆発ほどではないが、煙の量は増えている。

「若旦那が柄にもねえ事をしたから、お山の鬼が騒ぎ出したか」半兵衛は市太を見ながら苦笑した。

「よしてくれよ」

「冗談じゃ。それにしても、昨日のような怪我人が出なけりゃいいがな」

 家の中から兄の庄蔵と叔父の弥左衛門も飛び出して来て、浅間山を見上げた。

「まったく、いつまで続くんだ」

「そいつがわかりゃア世話はねえ」

 大揺れは一度だけだった。地鳴りは続き、灰が降って来た。仕事が終わると市太は手拭いで頬被りして、おろくの家に向かった。父親の見舞いを口実に、おなつにやろうと買って来た江戸土産の銀の簪(カンザシ)をおろくにやろうと、いそいそと出掛けて行った。

 おろくの家の前に来た時、ふと三治の姿が目に入った。村の外れ、おすわが嫁いだ源七の家の前辺りに一人で立っている。気になって側まで行ってみると、何と用水の中に小便をしていた。山から引いた用水は村人にとって井戸水と同じ、そんな所に小便をされたらたまらない。市太は慌てて、三治を捕まえた。

 三治は平気な顔して小便をしている。市太は三治の向きを変えた。長小便を終えると市太を見て、「ハハ、若ランナらア」と指をさした。

 どうやら、市太の事はわかるらしいが、馬のような一物(イチモツ)をふんどしから出したまま、しまおうともしない。

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10.六月一日
2007年11月03日(土) 11:30
10.六月一日




 今日は山の口開け、山の草刈りが解禁となる。二百頭もの馬を飼っている鎌原村では、馬草(マグサ)刈りは重要な仕事。浅間山も静まり、皆、夜明け前から草刈りに出掛けて行った。

 江戸から帰って三日間は、真面目に稼業を手伝っていた市太も仕事に飽きて、いつものように観音堂裏の若衆小屋でゴロゴロしている。

 市太と勘治が勝手に江戸に行ってしまい、いがみの権太と渡海屋のおとくの役は他の者に代えろという意見が出たらしい。若衆頭の杢兵衛が二人を庇い、帰って来てから演技を見て、ダメだったら替えようという事になった。江戸から帰って来たその晩に市太、草津に行ってしまった勘治は次の晩に、それぞれ演技を披露して無事に合格点を貰った。暇を持て余していた二人は、この小屋でたっぷり稽古を積んでいたのだった。

 おろくの父親が怪我をしてから、市太は毎晩のように見舞いに行って、おろくと会っていた。舞台の上の自分を見せたくて、稽古を見に来いと誘うのだが、忙しいのか一度も来ない。それでも、市太は気長に構えて、何としても、おろくをものにしようと考えている。

 市太がおろくと会っている事を知って、おなつは怒り、若衆小屋にも顔を出さなくなった。勘治はすっかり真面目になって、市太たちとは遊ばない。最近、若衆小屋に集まって来るのは惣八、安治、丑之助、そして、時々、鉄蔵が顔を見せるくらいだ。惣八とおなべの仲は続いているらしいが、おなつが来ないので、おなべも一人では来なかった。

「おい、市太、おめえ、おろくに夢中になってるようだけど、あんな女のどこがいいんでえ」と惣八が市太の江戸土産、北尾重政(シゲマサ)の艶本(エホン、春本)を眺めながら不思議そうに聞く。

「いい女だんべが」と横になって、おろくの事を考えていた市太は言う。

「まあ、いい女には違えねえけどよ、面白くも何ともねえ女だぜ。一緒に遊ぶっちゅう女じゃねえや。まさか、おめえ、嫁にするつもりなのか」

「馬鹿野郎、勘治じゃあるめえし、そんな事ア考えた事もねえよ」

「ただ、一発やりてえだけか」

「まあな。あのすました顔で、どんなよがり声をあげるのか見てみてえのよ」

「それなら簡単じゃねえか。どこかで待ち伏せでもして、やっちまえばいい」

「そうもいかねえ。なかなか、うちから出ねえからな。まず、何とかして、うちから出さなくちゃアならねえ」

「へっ、気の長え話だ」

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11.六月六日
2007年11月05日(月) 12:47
11.六月六日




 大笹宿(オオザサジュク)の市は一と六の日に開かれる六斎市(ロクサイイチ)で、穀物、お茶、炭、薪(タキギ)、煙草(タバコ)、木綿、真綿などの取引が行なわれ、近在は勿論の事、信州からも商人たちが訪れて来て賑わっていた。善光寺と草津温泉を結ぶ街道が通り、旅人の往来も激しい。宿場の西側に関所があり、特に女人(ニョニン)の通行を取り締まっていた。ここの関所番を務めているのが鎌原村に住む鎌原様だった。

 元沼田藩士だった鎌原氏、西窪(サイクボ)氏、栃原(トチハラ)氏、横谷(ヨコヤ)氏の四人が二人づつ一月交替で務めている。皆、身分は武士で、西窪氏は西窪村に、栃原氏は赤羽根村(三原)に、横谷氏は横谷村(松谷)に住んでいる。今月は横谷氏と栃原氏が関所番に当たり、鎌原氏と西窪氏はそれぞれの村に帰っていた。

 おなつと仲直りした市太は鉄蔵とおかよ、惣八とおなべ、妹のおさやと隣の枡屋の娘、おみや、それに、おさやとおみやに気がある安治と仙之助を連れて大笹の市に出掛けた。

 大笹には市太たちの喧嘩相手の藤次がいる。市日には仲間を引き連れ、宿場の警固に当たっているに違いない。今月の二十一日には市祭りがあり、村芝居が上演される。それを見るためには、何としても藤次と休戦しなければならない。市太は従妹(イトコ)である黒長の娘、おみのを利用しようと考えた。

 宿場外れまで来た市太らは、安治、仙之助、おさや、おみやを先に送り、おみのを呼んで来てもらう事にした。女だてらに馬方をやっているので留守なら諦めなければならない。家にいてくれと願いながら待っていると、四半時(シハントキ、三十分)程して、おみのは一人でやって来た。いつものように、首に手拭いを巻き、丈(タケ)の短い筒袖(ツツソデ)に印半纏(シルシバンテン)を着ている。

「よう、市太兄い、しばらくだね」とニッコリ笑う。

「ほう‥‥‥」と鉄蔵は驚いたようにおみのを見つめる。美しい顔付きと男勝りの身なりがあまりにも不釣り合いだった。絵になると思ったのか、じっと見つめている。

 市太は鉄蔵をおみのに紹介した。

「へえ、お江戸の絵画きさんなの」

「おめえも描いてもらやアいい。なかなかの凄腕(スゴウデ)だ」

「あたしなんか描いたってしょうがないさ。話は聞いたよ。藤次の事なら任せておきな」

「頼むぜ。祭りが終わるまでは、奴と騒ぎを起こしたくねえ」

「それはこっちの台詞さ」

 おみのと一緒に市太らは宿場に入った。

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12.六月八日
2007年11月07日(水) 12:10
12.六月八日




 江戸から帰って来た錦渓(キンケイ)は明礬(ミョウバン)捜しに忙しかった。朝から晩まで『江戸屋』の伜、伊勢松を連れて山の中を歩き回っている。明礬石が発見された事によって、江戸の小松屋と掛け合い、資金の調達はうまく行ったが、思ったように見つからない。師匠の源内が作ったという奇妙な測量器を持って、毎日、泥だらけになっている。戯作者(ゲサクシャ)志願の安治も馬方の仕事がない時は手伝いながら、錦渓から戯作の書き方を教わっていた。

 鉄蔵は大笹の黒長(クロチョウ)に気に入られて、襖絵(フスマエ)を描いてくれと頼まれた。鉄蔵は喜んで引き受け、そのまま、黒長の家に滞在している。惣八はおまんをものにするために小道具集めに精を出している。

 市太は今度の芝居を見事にやり終えたら、江戸に行こうと決めていた。この前、おなつと話したが、江戸に行って暮らすには何かをしなければならない。何をやったらいいか、真剣に悩んでいた。子供の頃から色々な事に興味を持って祖父に教わったが、どれも中途半端。博奕(バクチ)の腕には自信があるが、まさか、江戸で一端(イッパシ)の博奕打ちになる程の度胸はない。一体、何をやったらいいのか‥‥

 今晩は芝居の稽古もないので、市太は錦渓に相談しようと日暮れを待って桔梗屋に顔を出してみた。うまい具合に錦渓は酒を飲んでいた。他に客はなく、おゆくが隣に座って相手をしている。数日前、喧嘩したようだったが、よりを戻したらしい。

「あら、いらっしゃい。珍しく、一人なのね」

「何やら、みんな、忙しいらしくてな」と市太は軽く笑って、二人の側に行く。

「そういえば、お芝居の前座に娘義太夫をやる事に決まったらしいわね」

「娘たちも裏方だけじゃなくって、舞台に出てえらしい。雪之助に習った腕をみんなに披露しようって事になって、おなつの奴も負けん気が強えから、あたしがやるって稽古に励んでやがる」

「おなっちゃんも大分、腕を上げたようだね。でも、おきよちゃんもうまいからねえ」

「ああ、その二人のどっちかだんべ。おなべも負けられねえって頑張ってるようだ」

「おゆうちゃんもうまかったのに残念ね」

「そうだな。姉さんは出ねえのかい」

「あたしゃ娘って柄じゃないだろ。みんなが頑張ってるのに出しゃばる気はないよ」

 おゆくが酒の用意にお勝手に引っ込んだ後、市太は錦渓の向かい側に腰を下ろす。

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13.六月九日
2007年11月09日(金) 12:17
13.六月九日




 村芝居を上演するには役者は勿論の事、下座(ゲザ)と呼ばれる義太夫語り(チョボ)と三味線、笛や大小の鼓(ツヅミ)、鉦(カネ)や太鼓はなくてはならない存在だった。役者は若衆組(ワケーシグミ)が中心になって演じるが、下座は大人たちが担当した。市太の祖父、市左衛門とおろくの兄、甚太夫が稽古をつけている。その他に衣装やカツラ、大(オオ)道具、小道具が必要だった。

 衣装はお頭の妻おすみが中心になって女衆(オンナシ)が縫っている。高価な布は使えないが、それなりに工夫してやっている。カツラは七右衛門という手先が器用な男がいて、馬の抜け毛を集めて作っている。村で芝居が始まったのは、もう五十年も前の事、その頃はカツラもお粗末で、まるでお化けのようだったという。年々、工夫して、今では玄人(クロウト)顔負けのカツラを作っていた。

 大道具は舞台の背景や建物、樹木や岩などで、大工の八右衛門と桶屋(オケヤ)の利右衛門が担当して、絵は幸助が担当している。まだ、舞台上には大道具はない。大道具を舞台に上げて稽古が始まるのは七月になってから。それでも、すでに組立式の建物や張りぼての岩や樹木はできていた。背景の絵は幸助が鉄蔵の意見を参考にして、すでに描き始めている。

 小道具は役者が身につけたり、手に取ったりする小物で、担当しているのは馬医者の八兵衛。妻のおまんと一緒に小道具を集めている。子供がなく、二人だけで暮らしているので、家の中は小道具で埋まっていた。

 おろくのお陰で衣装ができたので、市太は惣八を誘って、小道具を見に八兵衛の家に向かっていた。先月の末に噴火した浅間山も静まり、ここ二、三日、いい天気が続いている。ようやく、夏らしい暑さになって来た。

「おまんはどうでえ。うまく行きそうか」と市太は惣八の顔色を窺いながら聞く。

「勿論さ」と惣八はニヤニヤしながら、「おめえの方はどうなんでえ」と市太を見る。

「まあな、うまく行ってるよ」市太も昨夜の事を思い出しながらニヤニヤする。

「負けたとしても、おろくを抱けるわけだ。楽しみだぜ」と惣八は肘で市太を小突く。

 そんな事は絶対にさせねえと思うが、顔には出さず、「俺だって、おまんを抱けるたア楽しみだ」と市太も強がる。

「そいつは俺の物(モン)だぜ」惣八は自信ありげに市太が腰に下げた煙草入れを顎(アゴ)で示す。

「なに言ってやがる。おめえの匕首(アイクチ)こそ、俺の物さ」

「まあ、お互え頑張ろうぜ。勘治じゃねえがよう、俺アおまんをものにしたら、スッパリと堅気(カタギ)に戻ろうと思ってんだ」

「ほう」と言いながら、市太は惣八の顔を見る。惣八は遠くの方を見つめていた。

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14.六月十三日
2007年11月11日(日) 12:05
14.六月十三日




 市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。祖父に江戸に行きたいと言うと、そうかとうなづいて、江戸にいる知り合いを紹介してやろうと言った。そして、お前は一体、何がやりたいんだと聞いて来た。

「おまえはわしによく似ている。兄貴の庄蔵は父親そっくりの真面目一方だ。まあ、問屋の跡継ぎには丁度いいのかもしれんが、わしから見ると、もの足らん。何かこう、こじんまりとしていてな。おまえにはそうなって欲しくはない。何をやってもかまわんが、ほんとに夢中になれるものを捜せ」

 ほんとに夢中になれるものは何なのだろうと考えながら、市太は仕事をしていた。別に問屋の仕事が嫌いなわけではない。だが、跡を継ぐのは兄だった。父親の弟、市太からみれば叔父もいるし、従弟(イトコ)もいる。自分の出番なんかなかった。要するに、この村にいても自分のやるべき事は何もない。だから、村から出る。村を出るなら江戸に行きたい。でも、江戸に行って何をする。祖父の知人のもとに行けば数日間は何とかなるだろう。しかし、その後はどうする。俺は何をやったらいいんだ‥‥‥わからなかった。

 今日は朝から小雨が降っているのに、大笹から松代(マツシロ)藩の武家荷物が次々に送られて来て大忙しだった。村の男衆(オトコシ)はほとんど馬方をして狩宿(カリヤド)へと出掛けて行った。昼頃、鉄蔵が帰って来たとおかよが知らせに来た。

「なに、兄貴が帰って来たのか」

「今、うちでお昼を食べてるわ」

「そうか。そういやア、俺も腹が減ったな」

 市太は側にいた叔父の弥左衛門に一声掛けて、おかよと一緒に向かいにある『巴屋』に向かった。

「大丈夫なの。忙しそうだったじゃない」とおかよは心配する。

「どうせ、俺なんか当てにしちゃアいねえよ」

「そう? 叔父さん、やな顔をしてたわよ」

「年中、ああいう面なんだ。気にすんな」

 大笹から来た馬方たちで店の中は混んでいた。おかよの兄嫁おべんと妹のおこうが手伝っている。鉄蔵は座敷の隅の方で茶漬けを食らっていた。市太が声を掛けると手を上げて笑った。

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15.六月十七日
2007年11月13日(火) 13:38
15.六月十七日




 舞台の上で、権太役の市太が、路考の演じる若葉の内侍(ナイシ)、おなつの弟、五郎の演じる若君、栄次の演じる小金吾(コキンゴ)を見送り、だまし取った二十両を懐(フトコロ)に入れて逃げようとする。そこに権太の女房、小せんを演じる江戸屋の伜、伊勢松が子役の善太の手を引き登場。

「これ、権太どの、こなさん、どこへ行かしゃんす」

「おお、小せんか。わりゃア店を明けて、どこへ行った」

「あい、わたしゃ旅人のお頼みで、坂本へ薬を買いに行ったわいな」

「そりゃ丁度よかった。われがいたら、また邪魔をしように」

『言う胸倉(ムナグラ)を取って引き据え』とチョボが入り、小せんの台詞が続く。

「これ、こなさんに騙(カタ)りさそうというて、はずしていぬぞや。最前、戻りかかったところに、わっぱさっぱ差し出たら、騙りの正銘(ショウメイ)あらわれ、どんな事になろうも知れぬと、あの松陰から聞いていたわいな。ええ、こなさんは恐ろしい企(タク)みする人じゃのう‥‥‥」

 そこで伊勢松は台詞に詰まってしまった。市太はイライラしながら、小声で、「姿は産めども」と教えてやる。

 伊勢松は思い出して、「姿は産めども心は産まぬと、親御は釣瓶鮨屋(ツルベスシヤ)の弥助の弥左衛門様というて」

 その時、ゴロゴロゴロと石臼(イシウス)を回すような音がして、舞台が揺れた。

「何だ。畜生め、また、お山が焼けたのか」と市太は浅間山の方を見るが、樹木が邪魔してお山は見えない。

 舞台の揺れは益々ひどくなり、立ってもいられない。みんなが慌てて明かりを消す。

「危ねえ。みんな、こっから降りろ」とお頭の杢兵衛が叫んだ。下座の大人たちも楽器を抱えて慌てて舞台から降りる。

 市太は舞台から飛び降りると、稽古を見ていたおろくのもとへと急ぎ行く。おろくと一緒に鉄蔵とおかよ、勘治もいる。少し離れて、市太の妹のおさやがおみや、安治、仙之助と一緒にいる。皆、不安な顔付きで座り込んでいた。

「また始まったな」と絵を描いていた鉄蔵は筆をしまう。

「まったく、いつになったら治まるんでえ」文句を言いながら市太はおろくの隣に行く。

「ほんと、いやねえ、もう」とおかよが顔をしかめる。

「あたし、帰らないと」おろくが心配顔で市太に言う。

「そうだな」と市太はうなづく。

「若旦那、ちゃんと送ってやりなさいよ」とおかよが声を掛ける。

「おーい、みんな、今晩の稽古はこれで終わりだア」と杢兵衛が叫んで、皆、ゾロゾロと帰って行く。

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16.六月二十日
2007年11月15日(木) 12:39
16.六月二十日




 灰の混じった雨が降り続いた。

 惣八の騒ぎがあった次の日も五つ(午後八時)頃、浅間山が焼けて、物凄い音と共に地面が大揺れした。その時、市太は珍しく家にいて、祖父の離れで、市左衛門から狂歌(キョウカ)を教わっていた。今、江戸では狂歌が流行(ハヤ)っているという。狂歌ができれば、有名な文人たちとも付き合える。有名な文人と付き合えば、何とかなると都合のいい事を考えている。

 突然、家が大揺れしたと思ったら、霰(アラレ)でも降って来たかと思うほど屋根の音がうるさくなって、話し声も聞こえなくなった。明かりを消して外に飛び出したら、痛くてたまらない。よく見ると降って来たのは霰ではなく、なんと小石だった。驚いた事に、石が雨に混ざって降っている。こんな事があるのか信じられなかったが、痛みは本物、市太は慌てて、家の中に飛び込んだ。

 大揺れの後、小揺れが何度もあり、小石は半時(ハントキ、一時間)近くも降り続いた。軽い石だったが、大きい物は直径が五分(ゴブ、約一、五センチ)程もある。半時で、大小様々な小石は三寸(約九センチ)ばかりも積もった。

 翌日、村は大騒ぎ、田畑の作物はすべて、石にやられて全滅してしまった。惣八の間男(マオトコ)騒ぎではなくなった。昨日、朝から晩まで、顔を合わせれば、惣八とおまんの事をあれこれ噂していた村人たちは、一夜明けると二人の事などすっかり忘れて、ゴーゴー音を立てて黒煙を噴き上げている浅間山を恨めしそうに睨(ニラ)みながら、絶望した顔付きで、もうダメだ、もうダメだと嘆いていた。

 雨が小降りになった昼過ぎから、村総出で小石掃きが始まった。積もった石をどけなければ、馬がまともに歩けない。用水の中に溜まった石も浚(サラ)わなければならない。市太も若衆組(ワケーシグミ)のみんなと一緒に作業に加わった。お山から降った小石は驚くべき量だった。通りの脇に石を積んだ小山がいくつも並び、それはまた、面白い景色でもあったが、何の役にも立たない石だった。

 さらに、悪い事が重なった。山守(ヤマモリ)の長太が山から帰って来ないと家族が騒ぎ出して、若衆組を中心に村総出の山狩りが始まった。前日の小石掃きで腰が痛くてしょうがない市太もブツブツ文句を言いながら山の中に入って、山守の親爺を捜し回った。

「惣八の奴、土蔵に閉じ込められちまったらしいな」と安治が棒で灰を被った草をかき分けながら言う。

「そいつアしょうがねえだんべ。金で片を付けるにしろ、世間体ってもんがあるからな。それより、おまんの方はお頭んちにいるようじゃねえか。八兵衛と別れるんかな」

「八兵衛の方は中居にいる親父が危篤(キトク)で、それどころじゃねえんだんべ」

「まったく、惣八の奴もとんだ事をしてくれたぜ」

 市太は「いてて」と言いながら腰を伸ばす。安治も腰を伸ばすと傍らにある石に腰掛ける。

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17.六月二十一日
2007年11月17日(土) 12:02
17.六月二十一日




 浅間山が焼け、石が降って来て、山守のとっつぁんが死に、錦渓先生は追い出された。

 次の日は大笹の市祭りだった。今年の村芝居は『菅原伝授手習鑑(スガワラデンジュテナライカガミ)』、市太はおろくを誘い、おろくも一緒に行くと言ってくれた。楽しみにしていたのに、村に不幸があったのに遊んではいられないと断られてしまった。

 芝居好きな村人たちも葬式を放っては行けないと諦め、勘治も安治も行けないと言う。仕方なく、鉄蔵とおかよを連れて大笹の芝居を見に行った。

 大笹に着くと藤次がすぐに現れて、市太たちを歓迎してくれた。やけにニヤニヤしている。

 おみのとうまく行ってるのかと聞くと、「まあな」ととぼけて、祭りの準備が大変だったと愚痴(グチ)をこぼす。鎌原に石が降った時、大笹にも降って、二、三寸も積もったという。

「祭りも近えのによう、まったく、まいったぜ。まあ、何とか無事に漕(コ)ぎ着けたがな」

 露店を冷やかしながら黒長の家に行くとおみのが珍しく、女の格好をして待っていた。髪もちゃんと島田に結って、市太の江戸土産の銀の簪(カンザシ)を差し、浴衣(ユカタ)姿が色っぽい。鉄蔵は目を丸くして驚き、さっそく、その姿を絵に写し始めた。

「どうしたんでえ。おめえ、頭がおかしくなったのか」と市太が冷やかすと、

「そうさ。この前、お山から降って来た石に当たってねえ。ちっと、いかれちまったのさ」といつもの口調で言って笑った。

「ほう。そいつアとんだ災難だったな。ついでだから、ずっと、いかれてろよ。その方がおめえの親父も喜ぶだんべ」

「ふん、そうは行かないよ。こんな窮屈(キュウクツ)な格好すんのは今日だけさ。年に一度の事だからね、たっぷりと拝んでおきな」

「その姿、藤次の奴にも見せたのか」

「何だって? 何で、いちいち、あんな奴に見せなきゃならないんだい」

 そうは言っても、顔はほんのり赤くなっている。おみのにもようやく遅い春がやって来たらしい。二人の行く先にはいくつもの険しい山が立ち塞(フサ)がっているだろうが、おみのなら何とか乗り越えそうだ。

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18.六月二十三日
2007年11月19日(月) 12:01
18.六月二十三日




 舞台では三幕目の『渡海屋(トカイヤ)』の稽古をやっている。いよいよ、本番まで、あと一月、何とか、皆、様になって来た。

 市太とおろくは仲よく見物。今晩は市太の出番はない。

「そろそろ行くか」と市太はおろくの手を引いて、おかよの店、巴屋に向かった。

「今日はほんとにすみませんでした」とおろくは謝った。

「なに、気にするねえ。どうせ、昼間はやる事がねえんだ」

「父ちゃんも助かったって言ってます」

「おめえを連れ出すにゃア、とっつぁんの機嫌を取らなけりゃならねえからな。お陰で昨夜(ユンベ)も一緒にいられた」

「はい」とおろくは少し赤くなる。

 一昨日(オトトイ)の晩、念願かなって、おろくを抱いた市太は次の日の昼、どうしても、おろくに会いたくなって、おろくの家に行った。家には誰もいなかった。寝たきりの母親はいたのかもしれないが返事はない。隣の武蔵屋の女将に聞くと、畑じゃないかという。畑の場所を聞いて行ってみると、おろくは弟の松五郎、叔父の三治も一緒になって、畑の中の小石をどけていた。杖(ツエ)をついた父親も危ない足取りで小石を片付けている。市太の家では市太が大笹の市祭りに行った日に、手の空いている男衆(オトコシ)に手間賃を払って片付けたらしい。唯一の働き手である松五郎が手間賃稼ぎに他人の田畑の小石を片付けていて、自分の家の畑は後回しになってしまった。市太は見るに見かねて手伝った。

 昨日、今日と仕事に精出し、何とか、小石も片付けた。おろくの父親も感謝して、昨夜は芝居の稽古がないのに、市太と出掛けるのを許してくれた。市太はおろくを自分の部屋に連れて行き、江戸芝居の役者番付や役者絵を見せて、有名な役者の話を聞かせ、ついでに土蔵に連れ込んで、しっぽり濡れた。

 巴屋には鉄蔵、幸助とおきよが来ていた。

 幸助はおきよを美人絵に描いて贈り、やっと、自分の気持ちを伝える事に成功した。おきよの方もまんざらでもないらしい。

「あら、お揃いで。いらっしゃい」とおかよが笑顔で迎える。

「おめえ、大丈夫(デエジョブ)か」と市太はおかよを心配する。

「大丈夫さ。こうなる事は最初からわかってたのよ。平気、平気」と強がりながら、おかよはお勝手の方に引っ込んだ。

「あたしも手伝った方がいいわね」とおろくもお勝手の方に行く。

 市太はうなづいて、座敷に上がり込む。

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